序
僕は、香水というもの自体は、一種のおしゃれとして、自己表現として、とても気に入っているのですが、どうも世間では、香水などというものは、熱心に語るべき対象ではなく、さりげなく体得していて然るべきオーラ、あるいは、いかにも自然に醸しているべき雰囲気・佇まいであるように言われているような気もします。だから、ここで香水について、いろいろと語ってしまうのは、ある人々から言わせれば、甚だ無骨なことであるのかもしれません。しかしながら、そこに一抹の不安を抱きながらも、敢然と語ってみることに、表現者としての使命があるようにも感じてきて、とりあえず、一度勇気を出してみようと思うのです。
自然な香水の語り方
ひとつ、どうしても引っかかることがあるとすれば、語らないことが洗練とされる感覚かもしれません。確かに、香りというもの全体が、言葉の扱える範疇にあるわけではないでしょう。こういうものは、理屈で語られる以前に、「ふと」感じられ、いつともなしに消えてしまっている。その意味で、香水は感得・体得されるべきものだといえるのかもしれません。
しかしながら、その語らなさ自体が、一つの価値として共有され、多くを語らないことこそが上品であるとまでいわれ始めたとき、それはむしろ高度に様式化・制度化されただけの不自然なふるまいに堕してしまうのではないかと、少し僕は案じてみるのです。
説明など必要としない、自然と滲み出る気配。なるほど、そうした理想は実に美しいものですが、その理想自体が固定され、一種の規範として流通し始めたのなら、そこにはすでに、強い意識が入りこんでいるような気がするのです。
思うに、本当に自然であるものは、おそらく自然であろうとすらしていないのではないでしょうか。
香水をわざわざ身に纏っているという時点で、疾うに作為が入ってしまっているわけで、それについてあえて無作為を演じてしまうことは、かえって不誠実のような気もするのです。(その了解のうえで、その罪悪感すら色気に昇華してしまうように、Gucci Guiltyをふっている人がいたとすれば、ひどく洒脱でかっこいいな、なんて。)
だとすれば、僕が香水について語ること、それも、ためらいや逡巡を引き受けたまま語ることは、それこそ美しい文学的行為ではないでしょうか。語らないことが洗練であるという前提をふまえて、それでも語ってしまう。そのとき初めて、香りが単なる雰囲気やオーラとしてではなく、もう少し確かな手触りのあるものとして、こちらに立ち現れてくるのではないかと思います。
しかも、あるいは逆に、どれほど言葉を尽くしてもなお把捉できないものとして、香りが実感されることもあるでしょう。そして、その逃げていく様子が、まるでハレー彗星のようにほんの数瞬だけ姿を見せ、やがて遠ざかっていく。それを微笑みと諦観をもって受け入れる。ここにまた、一つの美学を見出すでしょう。
だから、香水について語ることは、香りを完全に説明し尽くすことではなく、言葉がどこまで届き、どこから届かなくなるのか、その境界を何度もなぞることに近いのではないかと思います。
お高くとまった沈黙が気品を守るように思われたのと同じく、僕たちの言葉もまた、別の仕方で香りの周囲を確かめているのです。
そして、香りに誠実に、言語と非言語を行き来して限界を確認する、その往復の中でしか、香水の真価に近づくことはできないのではないかと、そんなふうに僕には思えてくるのです。
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